畑中正人の日記、2001年掲載分です。


2001年 5月29日
今日、琴似のコンカリーニョでコンテンポラリーダンスと映像と音楽とのコラボレーションを行った。
そのほとんどが即興で行われ、自分自身も久々の即興演奏だった。
いっしょにセッションしたのは西村さんと塚原さん。 いままで何度もやってきたメンバーなので不安はなかった。
全体リハが本番1日前のみという恐ろしい日程を経て行われた本番の後に襲ってきたのは、「浮遊感」だった。脱力感でも虚無感でもなく達成感でもない。ダンサーや映像、照明の人たちを含めて、10人を超える中でやること自体滅多にないことだが、一言「呼吸が多すぎる」ステージだった。一人ひとりの呼吸が連鎖ではなく、連続してしまったことが、自分自身の中で浮遊感を生む結果となった。このことがいい事なのか悪い事なのかは、わからない。しかし自分の演奏が消化不良のまま終わってしまったことは事実だ。50分という演奏時間の中で、いいなと思ったのはたぶん10分間ぐらい。改めて自分の未熟さを知ることとなった。
即興演奏は決められた演奏をするのとは違う技術と感覚を必要とする。集中力もそうだし、数秒の反応の遅れが致命的な結果を生む事だってあるし、数秒のハシリが絶大な効果を生む事だってある。とにかく瞬間瞬間の積み重ねを持続させるには、相当の経験とセンスが必要だ。話しはそれるが、個人的には「場所」のこともあった。いつもコンカリーニョでやる時は、かなりの気合いがいる。言葉では上手く言えないが、黙っていると演奏が飲み込まれるくらい、強い磁場と重力がそこにはある。いままでも上手くいったことは、少ない。かなり体調と精神を安定させなければ、自分にとっては難しい場所だ。だからこそ、やりがいはある。しかし今回も悔しいが、負けてしまった。西村さんも塚原さんもとても良かった。だが、自分はまだまだ青い。うまく演奏をコントロールできないまま、何となく終わってしまった。何度やっても「即興演奏」は難しい。しかし、何度やっても答えのない「音楽」という存在の面白さを改めて知った1日だった。

2001年 5月31日
相変わらず休んでいるのか休んでいないのかわからない日々だが、制作の合間をぬって新作のアルバム制作に着手しはじめた。
思えば、新作と呼べるものは2、3年作っていなかった。何となく音楽制作の仕事に追われていまに至ってしまった。
1作目の「USE」、2作目の「Period」は「どこまで音を詰め込められるか」というテーマのもと、ほぼ同一ラインとして作られた。音色はとにかくノイズを含み、打ち込みは複雑化し、歌ものの場合はできるだけ歌詞の「意味」を排除し、何とか音楽じゃないものを作ろうともがいていた。それは巷にあふれる大量生産の音楽に対する批判の意味もあったし、自分の怒りのハケ口でもあった。それが、平戸健司氏のコンテンポラリーダンスのために書いた作品「オルナメント」(98年)で、自分の内部が少しずつ変化していった。この作品はそのほとんどが、人の声で構成され、両親や友人からのインタビューを中心に成り立っていた。本番はそのベーシック音の上でさらに演奏を加えていく方法で行われたが、その公演の直後、自分の内部が限りなく白紙状態になるのを感じた。それ以来、ただの「感情」だの「表現」という言葉自体にとらわれないようになった。音楽をすることは「表現」にほかならないのだろうが、そうではない別の感覚が芽生えはじめた。これは、絶対に言葉では表せないことだが、自分の中には決定的な「経験」として刻み込まれた。
それ以来、内側にこもる孤独感も自己満足感も、外側に向かう虚無感も嫌悪感もどこかに消えてしまった。ただ音楽をやればいい。そう思えるようになった。今回の新作制作の出発点はこういったことからきている。まだどんな音になるのかは、自分でもさっぱりわからない。ものすごくわかりやすいものになるかも しれないし、反対かもしれないし、1枚ではおさまらないかもしれない。ただ、過去の音からは明らかに変わるだろう。実際の制作過程も多少変化があり、声や生楽器はもちろんだが、Reasonなどバーチャルのデジタル・モジュールも使用している。ほとんどがコンピュータ上で録音され、いっさい本体を出ずにCD焼きまで いくことも可能だ。ただ最近の技術の発達に関しては、はっきり言ってついていけない。新しいものはどんどん試すが、結局使う行為そのものに興味がいってしまう自分に気が付く。これからのコンピュータミュージックは皆がほとんど同じ環境で制作されていくだろう。物さえあれば音が作れる時代にすでになっている。だからこそ、音楽へ向かうパッションが誰よりも、切実に必要になる。結局残っていく音楽はそういうものだろう。デジタルの落とし穴に落ちることなく、創作する。それが今回の新作のもうひとつのテーマになるだろう。ともかく作業はこれから本格化する。


2001年 6月1日
気が付いたらもう6月。でも気温は相変わらず不安定。先日この気温変化に体がついていかずに、とうとう熱を出してしまった。仕事も詰まっているというのに・・・。いま一番あげなければいけない仕事は、9月に岩見沢で行われるイベントのための楽曲。詳細は今後明らかにしていきますが、一言で言うと、ラヴェルの『ボレロ』を基礎に、ブルガリアン・ボイスとソプラノ・オペラ、パーカッショングループと僕のサンプラー&キーボードの演奏をひとつにまとめ、その演奏をもとにハンブルグバレエ団が踊るという内容。まだ未定だが、ピアニストや弦の人たちが参加してくれるかもしれない。とにかく今はその演奏のもとになる”シュミレーションCD”を作ること。当然作曲する部分もあり、ボレロをアレンジする部分もある。参加してくれる音楽家も様々なので、なかなか難しい作業だ。音楽家の中には99年にハンブルグで共演したパーカッショングループのエルベトナールと、ソプラノのヘルガも参加する。ハンブルグバレエ団とも2年ぶりの再会になる。いまから楽しみでしょうがないのだが、僕の作業が終わらないうちは前進しない。なんとか熱は下がってきたけれど、何もこんなときに・・・。とにかく来週中にはハンブルグバレエ団にCDを送らなければならない。おちおち寝ているわけにもいかない。といいながら、昨日のサッカー、日本対カナダはしっかり見てますけど・・・。

2001年 6月2日
やっと熱も下がり安定したと思って、仕事を再開したとたん、いきなりの腹痛。どこまで下るんだというくらいお腹が下る。ほとんど10分おきにトイレへ走る始末。あまりに痛くて、午後1時から3時すぎまで気を失ったように横になる。ハッとして起きて仕事をしては、また腹痛・・・。という繰り返しで最悪の週末をすごしている。いい加減に仕事させてほしい。

2001年 6月3日
昨日ほどではないにしろ、腹痛もおさまりはじめた。一体何だったのだろう。今日はとりつかれたように仕事に打ち込む。というより、そうとうヤバイ状況。今日ふんばらないと今週地獄を見るハメになる。しかし、例の「ボレロ・改」は思ったよりも難航。参加するミュージシャンが多いので、皆をどう生かすかのかが、難しい。まぁいつもどうにかなってきたので、きっとうまくいくだろう。このイベントは今月はじめから中頃にかけて雑誌、新聞、TVなどで告知されはじめるはずですが、このHP上でも詳細をお伝えする予定です。9月なんてあっという間でしょう、きっと。どんなステージになるのか楽しみにしていて下さい。それでは、仕事に戻ります!

2001年 6月4日
今日は授業で60年代ロックを取り上げる。いまの18、9歳の子たちにとっては、ずいぶん大昔の話し。ビデオで見たのは、ザ・フーやドアーズ、ジョニ・ミッチェルも出演し、ジミヘンにとっては最後のステージになった「ワイト島・ロックフェスティバル」。当時の若者はジミヘンなんかを娯楽として聞いていたんだろうけど、いまの子たちにはちょっと骨太すぎたか、うわのそら。というか授業自体聞いてない。よくいまの子供は集中できないというけど、本当かもしれない。実際もって20分という短さ。45分授業なんてとんでもないという感じ。自分のやりかたにも問題あるかもしれないが、もう少し聞いてくれよという状態。しかも、あまり怒られ慣れていないだろうから、怒られても何のこっちゃという顔をする。だからここ数年授業で怒ったことは、ない。中学生でも高校生でもなく、専門学校生なんだから、基本的に大人として扱かっているが、実際はまだまだ子供。まぁ「聞かない子の方がかわいい」とは言うが、教室に漂うのは「世の中に対する虚無感」というべきダラ〜っとした空気。「どうせ就職ないんでしょ?」とか「学校つまんないし」という感情がまる見え。美化するわけじゃないけど、自分が学生の時は興味の塊だったけどなー。だいたい音楽学校に来てるんだから、音楽に興味がないわけはないんだろうけど、「音楽」というのは「J-POP」のことだと思ってるんだろうか?「学習」というのは「テスト」のために丸暗記することだと思ってるんだろうか?どちらにしろ、彼等だけのせいではない。いままで受けた教育環境もあるだろうし、とかくつまらない音楽を取り上げてしまう一部のメディアの影響かもしれない。だが、「ギターを弾けるようになる」ことと「ミュージシャンになる」こととは違う。自己表現するためには複眼的にものを見る精神が必要だし、それを音楽に繁栄させるセンスも技術も必要だ。これは誰かに教わるものではなく、自分自身で手に入れるものだ。もしその精神を持っている生徒が増えれば、教室の空気は一気に変わるし、そうさせる学校と講師の努力も必要になる。ところで、僕は自分のことを教育者だとは思っていない。だから生徒にも「先生」とは呼ばせていない。「教える」という行為はほかならず、「教わる」ことだと僕は思う。生徒に向けて発言する言葉は、自分自身に向ける言葉でもある。とにかく彼等が自分自身で「何か」を得るまで、しつこく「触発」し続けるしかない。どのみちこれくらいしか、僕には出来ない。「プロのミュージシャン」なんてあってないような職業だ。そんな職業につくためには「自分」をしっかり持っていないと、すぐに落ちていく。その厳しさや楽しさは実際に体験した者にしかわからない。ジミヘンのように死と引き換えにその体験をした者だっている。もし生徒たちが「自分」を押し殺して学校へ来ているのなら、もっと解放へと向かわせる体制作りも必要になってくるだろう。とにかくそんなことを思い巡らせながら、授業終了後、仕事場へと戻った。・・・「教育」は本当に難しい。 というか自分は教育になんて携わってていいのか?

2001年 6月6日
ようやく「ボレロ・2」の締切りに間に合う。本当にギリギリ(いつもそうだ)。まぁ納得いくものにはなったが、実際に合わせてみないとなんともいえない。一番重要なリズムを刻むエルブトナールのメンバーはハンブルグだし、まさにCDをドイツに送ってからの方が重要である。スコア制作はもとより、公演本番のためのプリプロに入らなければいけないし、当日使用する機材のリストもあげなくてはならない。一番の問題は、当日楽器としてコンピュータを使用するかどうかだ。絶対にフリーズが許されない重要なパートは、従来のMTRを使用するだろうが、以前まではシンセサイザー中心のセッティングだった演奏のための機材の一部を、コンピュータに代行させるかどうか・・・。いまだにライブでコンピュータを積極的に使用する気にはならない。しかし、今使用しているサンプラーだけでは、限界にきていることも事実。単にハードを追加するだけでは、根本的な解決にはならない。こうなれば、コンピュータをサンプラーとして使用し、フィルター、エフェクト処理を外部で処理する方が、色々なアイディアを試せるかもしれない。どちらにしても、これまでの演奏方法から脱却することになりそうだ。

2001年 6月12日
先日ある友人から、「作曲に煮詰まっている」との相談の電話をもらった。その彼は僕よりもずっと若くて、僕よりもずっと有望だ。彼によると、煮詰まっている直接の原因はわからず、ただ「何かがおかしい」と感じているようだった。何かがおかしいのは、何かに気付きはじめる直前の状態であることに違いない。彼の話しを聞いているうちに、昔の自分を思い出してしまった。何をやっても納得がいかず、仕事すら手につかなかった96年。寝る間も惜しんで動き回った95年の活動がもたらしたものが消化不良となり、そのツケが翌年にまわったことで、身動きがとれなくなっていた。かつて音楽とは自分にとって、「自分自身」のための音楽だった。もしくは、現実逃避のための音楽だった。それが、仕事として音楽を作るようになって、音楽を通して「現実」を見なくてはいけなくなった。その環境変化は自分にとって厳しい変化だった。もはや自分だけのための作曲活動ではなくなったのだ。彼もいま似たような状況にいる。しかし、その解決方法は彼だけが見出せるもの。僕のものさしは通用しない。彼の内部から湧いてくるもの、彼の外部からやってくるもの、どこにヒントがあるかは彼自身のみが知っている。僕はただ一言、「作り続けること」と伝えた。電話のあと何とも言えない気持ちになったが、音楽は理論だけでも感覚だけでも作ることができない。その難しいバランスの中で揺れ動く気持ちは、経験しなければわからない世界だが、彼ならきっと乗り越えるだろう。改めて「音楽とは何か?」そう自分自身に問いかけた1日だった。

2001年 6月13日
その後煮詰まっている彼から連絡が入り、どうやら解決した模様。彼曰く「ロックを聞いたら解決した」らしい。やはり頭のどこか一部分が凝り固まっていたようだ。事実ちょっとしたことで、この手の問題が解決したりする。ほんの少し自分のフィールドを見つめ直して、ほんの少しの発送転換をするだけでいい。物作りとはこんなことで前に進んだりするから面白い。物作りと言えば、アメリカン・ショート・ショートを見た何人かの生徒が自分でも作ってみたいと言っていた。そうとうインパクトがあったらしく、今まで映画なんて手に届かないと思っていた子たちが、いま実際にショート・フィルム作ってみようと、アイディアを模索中だ。どんな作品になるかとても楽しみでもあり、また、物作りへの興味を持つ事の大切さを知ってもらえることは、とても嬉しいことだ。こういう若い人たちがどんどん増えてくれれば、この札幌という場所も少しはいい方向に向かうかもしれない。

2001年 6月17日
「運」とは何だろう。この実在のない運という存在に人は惑わされる。持論から言えば、運とは別にあってもなくてもどちらでもいい。自分にとって運とは、偶然と必然の間にしか存在しないものだ。運があれば何をやってもうまくいくかもしれない。だが、そんなものがなくても本来は何とかやれるものだ。ただし、継続した力と経験値があれば、という条件付きでだ。別に自分は偉そうなことをいえる立場では、ない。しかし、特に学校の授業で伝えたいことが正にこれだ。他はどうか知らないが、最近は地道に努力することを極端に嫌う若者が多い。というより、してもいないのに嫌う、いわば食わず嫌いだ。例えば、ミュージシャンになりたいと思う。たいていは、誰もが羨む所謂「ミュージシャン」に憧れる。しかし、実際はそんなに甘いものではない。一番大切なのは、「ミュージシャンになる」ということは、「ミュージシャンであり続ける」ことだということ。その道に向いていないだとか、自分がミュージシャンかどうかは、自分で決めることだ。決して、他人のものさしで自分を計ってはいけない。スポーツ選手でもない限り数字や成績に左右される必要もない。1位も2位も、金持ちも貧乏もへったくれもない。重要なのは「音楽をやり続ける」ことだ。それがなければ運など巡ってこない。もしも巡ってこなければ来るまで粘る。自分自身の創作意欲があるうちは「あきらめ」などという言葉は浮かんでこない。本来音楽の中には性別も年齢も国籍も存在しない。だと言うのに、若い方がいいだとか、今は女性ボーカルの方がいいだとか、歌詞は日本語がいいだの、いや英語の方が格好いいだの、そんなくだらない論理や議論はレコード会社かメディアが作り上げている幻想にすぎない。「自分」という表現回路さえ持っていれば、誰にでも開かれている表現媒体なのである。このことを忘れていては、到底長続きはしない。「運」は頼るものではない。「運」は自分で手繰り寄せてなんぼのものだし、「運」だけで音楽活動は出来ない。明確な自己のコンセプトを持ち合わせ、それを誇りに歩き続けることが、将来の人生を豊かにするのだと思う。しつこいようだが、運があるかないかは問題ではない。とにかくミュージシャンであり続けること。そのためには何が必要なのか?それはその人それぞれの中にしかない・・・。最後に、「継続は力なり」という言葉は真実だということと、地道に努力することは決して格好悪いことではないということを念押しして、今日は終わりにします。

2001年 6月18日
16、17日と札幌ドームで行われたYOSAKOIのイベントに急遽、キーボード奏者として召集された。譜面は本番の数日前、リハは前日のみというスケジュールで行われた。動員人数は両日合わせて約7万人、その様子はNHK総合とBSで全道、全国放送された。踊子の人数も聞いた話では1万人という、とんでもない規模で行われたイベントの中で、一番冷めていたのはひょっとしたら自分かもしれない。自分の楽屋の周りにはK氏やY氏、H氏など著名人がいたせいもあったが、組織委員会の方々も含めて、まるで北海道の救世主のようにインタビューや解説をしている様子を見て、大きな疑問符。イベントの規模だけが話題となっていたようだが、実際にはイベントのしきり方に関してはずいぶんと穴だらけの部分ばかりだった。とにかく連絡系統は全く駄目で、何を誰に聞けばいいのかさっぱりわからない。その辺でスタッフらしく振る舞っている方々からの言葉は、「おはようございます」と「おつかれさまです」と「ちょっとわかりません」の3種類だった。
それはともかくとして、今回はYOSAKOIの感触を直接肌で感じるいい機会だと思い、演奏の依頼を受けた。しかし、演奏しながら、自分の目の前で踊っている大勢の人達を見ながら、これを「お祭り」として感じていいものかどうか困ってしまった。(というか一体何を、誰を祭っているのか?)楽しんでいる人たちは良しとしても、これを楽しんでいない(もしくは楽しめない)人達はYOSAKOIという世界の中で一体どういう扱いなのだろうか?北海道に住む人間としてYOSAKOIを心底楽しまなければならない義務もないし、批難していい権利もない。
でもソーラン節が北海道的だと一体誰が決めたんだろう。自分の生まれ育った浜頓別でソーラン節を聞いた事は一度もないし、ルーツでもない。
・・・本当に北海道から外に発信できるのはYOSAKOIしかないのだろうか?(というかそもそも北海道から何を発信するのか?)
そんなことをぼんやりと考えているうちに、演奏は終わっていた。
イベント終了後、何か空虚な気持ちを抱きながら冷房のききすぎた楽屋を出た。そして、廊下にほうり出されていたH氏の大きな弁当の残骸に目を止めながら、巨大化し続けるムーブメントとその熱気に追い出されるように札幌ドームを後にした。

2001年 6月24日
久しぶりにあんまに行く。相変わらず締切りに追われるも、どうしようもない全身のこりはどうにもならず。 治療中も「こりすぎ」を連発される。どうやら、ふくらはぎがまずいらしい。ここが固いと全身の血流が悪くなるとのこと。今回は背中と肩が一番の固さ。このせいで昨夜は胃まで痛くなる始末。マッサージされること約40分、なんとか楽にはなったが、やはり毎日ストレッチがいいらしい。でも今の仕事ペースだと1週間後にはまた全身ガチガチになるに違いない。あんまやマッサージなど、もっと年を取ってから行くもんだとばかり思っていたが、今ではやみつき。そのうち針や灸までやるのだろうか。毎日コンピュータの前でヘッドフォンをして仕事をして、気が付けば10時間は座りっぱなし、ということもまれではない。昔のシーケンサーと鍵盤だけの頃は今程疲労はなかった。オープンリールを回して録音してた時は単純に楽しかった。フリーズすることもなかったし。やはりコンピュータの画面は体に毒かもしれない。皆さんもコ リには十分注意して下さい。

2001年 6月27日
9月1日の岩見沢のイベントのための楽曲に直しが入り、一部を作り直した。あくまでもシュミレーションCDであるという制約から、僕自身まだ見えていないところがあった。特にハンブルグから来るパーカッショングループのパートに関しては気心が知れているとはいえ、専門でないと難しいところが多い。だが、そうも言っていられないので、集中して1日で一気に仕上げることとなった。そして今日の昼にCDをハンブルグへ発送した。おそらくこれでOKになるはずなので、あとは一気にスコアを仕上げるのみとなった。ポスターとチラシは既に出来上がっており、あとはいかに宣伝していくかというところだ。これだけのイベントなので、是非たくさんの人に見て欲しい。僕が担当するボレロをもとにした楽曲では、即興で演奏される部分も多く、このイベントでしか見られないアンサンブルとなる。とにかく、勝負はまだまだこれから。

2001年 6月30日
相変わらず音楽番組はつまらない。HEYHEYだってダウンタウンが出ているから見るようなものだ。小室哲哉が落着いたと思ったら、今では、つんく。自分にとっては全く必要なさそうな音楽ばかりで、うんざりする。日本人でももっといい音楽を作っている人はたくさんいるのに・・・、まぁそういう人は勝手にいい音楽をやっているだろう。現在は昔に比べれば、少しはマシだ。90年代初期から中期にかけては、カラオケで歌える曲=いい曲という公式が平気で認知されていた。1回聞けば記憶できる曲の方が、何度も聞いて深みを感じる曲より有利という状況は、今でも変わらないかもしれない。ここでは「記憶」が「理解」にすり替えられている。だいいち、「音楽を理解する」とはどういうことだろう?リスナーのほとんどは歌詞の内容と曲調と歌声だけで理解しようとする。小説やマンガのように起承転結を作らなければ、音楽として認識されない。誰にでもわかりやすいという事は、ポップスの世界では重要なことだ。リズム、ハーモニー、メロディーという3つの要素を満たして、はじめて音楽たりえる。しかし、それが1つでも欠けると、もう音楽ではなくなる。そして、起承転結とはドミナントからトニックへと向かうベクトル。「起立-礼-着席」のピアノの合図がまさにそれだ。それを破ると、まさに”規則違反”となる。ハーモニーに関しては、日本人の耳は明治維新から西洋化されていた。3度や5度のハモリが綺麗なものと認識される以前は、2度や4度のハモリに美を感じていた。演歌は日本の心というが、音楽的に見れば属している構造は西洋音楽のそれだ。多くの「音楽を理解」するという行為は、あらかじめ日本の音楽教育に刷り込まれた観念の中にしかない。商品化された音楽を聞く度に、仕事で商品化のための音楽を作る度に、これらの思いが頭を巡る。これはきっと、ずっと続く葛藤になるだろう。そして、これは自分の中でずっと続く闘いになるだろう。

2001年 7月5日
ようやく”第1回北方圈音楽祭”のためのスコアも仕上がり、まずは一段落となりました。今日は空いた時間を利用してHBCに宣伝のためのプレゼンに行って来ました。もともと知り合いだったディレクターの人は、自らもダンサーでもあるという人。たいへん興味を持ってお話を聞いていただきました。僕も単なる出演者としてだけではなく、自分ができることは何でもしようと宣伝に走るつもりでいます。とにかく出演者は本当に北海道に来るの?という人ばかり。特にハンブルグバレエ団のトップダンサーたちが本道入りすることは驚きです。以前ハンブルグで共演したとはいえ、同じステージに立つこと自体、滅多に経験できることではありません。こんなに早く再会できることも大変嬉しい限りです。でも、これらの事もきちんと宣伝して広めていかないと、その凄さがなかなか伝わりません。とにかくあと本番まで2ヶ月をきりました。絶対に良い公演になることは間違いないこのイベントを、このHPを御覧のみなさんにも是非とも見に来ていただきたいと願うばかりです。

2001年 7月9日
先日テレビで、遺伝子音楽のニュースを見た。文字通り解析した生物の遺伝子情報を、そのまま音楽にするという方法だ。だが、遺伝子情報を所謂西洋音階にあてはめている手法を見て、「またか」という思いが頭をよぎる。何でもかんでも西洋の音楽理論にあてはめて考えるのはいかがなものか。研究者たちは、この地球上にある音楽は全て西洋音楽理論で解析できるとでも本気で思っているのだろうか?結局こういった理論は、次々と添え木されて最終的にあらぬ方向へと発展していく。西洋音楽の音階の隙間にはまだまだたくさんの音程が存在している。例えばアフリカやアジアの音楽世界には、決して西洋の理屈では割り切ることができない独特の音楽文化が存在する。そういった音楽文化を、まるで植民地化するかのように征服してきた西洋音楽の犯した罪は大きい。今回の遺伝子音楽のような穴だらけの理論を耳にすると、本当に苛立ってしまう。確かに音楽に対する理論的・数学的な思考は必要であるし、かつてヤニス・クセナキスらが行った数学的思考から生まれた音楽が後の音楽の世界に大きな影響を与えたことも事実だ。だが、理論は音楽ではない。理論という泥沼にはまることが、音楽を悪い意味で危うくすることも知っておかなければならない。

2001年 7月16日
最近は新しいiBookが気になってしょうがない。将来的にサンプラー演奏をもっとスリムにモバイル化したいという事で、早速その他の周辺機器を下調べすることに。まずは中心となるiBook(CD-RW)は約20万円で、できるだけ小さな鍵盤ということで、標準鍵盤で32鍵タイプがUSBMIDIインターフェイスを付けて約2万円、そしてUSC経由のオーディオ・インターフェイスが5万円で、合計約27万円。それで求めている環境が手に入る。・・・安すぎる。一体いままでの機材にかけたお金は何だったんだろう。長いラックに音源を詰め込んでミキサーに結線して、電源、MIDI&オーディオケーブルがおびただしいほど絡み合っている光景は何なのだろう。そう思うと今までの苦労がバカらしくなってくる。やはり音源はPCで、録音&編集はMacで行うスタイルが今は理想だ。こうなれば、キーボードはRhoseのエレピとハモンドオルガンさえあれば事足りる。機材も減れば、部屋も広く使える。多くの機材に囲まれて、その機材熱と格闘しながらむさ苦しく制作するのにもウンザリだ。過去の予算に比べて、劇的な安さで制作環境を整えられる現代は本当にいい時代だ。あとは先立つものだけ・・・。

2001年 7月20日
岩見沢のイベントの際に、YAMAHAの新製品を使ってほしいとの話しが来た。その新製品というのは、つい最近発売されたキーボード「モチーフ」。まだ写真だけで、現物を見ていないのでどんなキーボードかは、まだわからない。とは言え、メーカー側から使ってほしいと依頼されたのは、生まれて初めて。嬉しくないわけがない。ありがたい限り。しっかり使わせていただきます、ありがとうございます!さて本日午後より、浜頓別に急遽帰省することとなりました。たぶん来月はほとんど休めないだろうという読みからですが、心配なのが天気。最近は週末になると天気が崩れるパターンがほとんど。いまも雨が降ってます。多分何も起こらないとは思いますが・・・。

2001年 7月25日
先週末は一足早い御盆休みということで、久しぶりの浜頓別!本当ならば嬉しいはずが、どうやら雨雲といっしょに北上してしまったらしい。とはいえ帰省は帰省。結局食ってばかりの連休でした。浜頓別に帰った時は、必ずクッチャロ湖でボーッとしているのですが、この雨で湖の色もイマイチ。ところで高校生の頃は、ほとんど毎日湖を見ながら作曲のアイディアを練っていたものでした。実家から10分もかからずに歩いて行けましたし。天気の日には素晴らしい風景が広がっているのですが、最近はすっかり観光地化されてしまったので、結構にぎやか。個人的には誰もいない静かな環境でボーッとできた頃が懐かしいのですが・・・。今回は行けずじまいでしたが、ベニヤ原生花園エリアの、とあるポイントに素晴らしい景色があります。そこの景色はもう、日本の景色ではありません。その景色を堪能するには、丁度今頃が一番いい季節です。しかしここは誰にも教えずにこっそり楽しもうと思います。しかし、何だかんだ言ってこの町に帰ってくると、「やはり自分のルーツはここなんだぁ〜」とつくづく思います。感覚も札幌にいる時と違う気がします。音楽の聞こえ方も違うし、もしも機会があれば、浜頓別にこもって作曲でもしてみたいものです。しかし最近は札幌に帰ってきて「ホッ」とすることも事実。すっかり札幌が第2の故郷になっているようです。それにしても、最近の天気はどこかおかしい。つい月曜あたりも東京かと思うような湿気。全く北海道らしくない。しかもこんな水曜日なんかに快晴で、また週末は崩れるんでしょうか?年々温暖化はしていくし、だんだんこの星も住みにくくなります。

2001年 7月30日
昨日は午後から突然の思いつきで京極町へ。目的は水。半信半疑で水の湧き出る公園へ向かったんですが、飲んでみると本当に旨い。よく週末になると札幌から水をくみに来る人がいるという話しは聞いていたんですが、これならしょうがない。すっかり水を飲み過ぎたあとは、札幌へ。夕方到着するカール・ストーン氏と大友良英さんにお会いするためです。夜7時とある居酒屋にて集合。カールさんとは初対面、大友さんとは3年ぶりの再会でした。びっくりしたのはカールさんの日本語。ほとんど通訳がいらないほどで、会話の6割りは日本語という状態でした。何はともあれ、尊敬するお2人を目の前に少々興奮ぎみ。大友さんからも滅多に聞けない貴重なお話しを聞く事ができました。また、ピアニストの宝示戸さんにも久しぶりに御会いできましたし、この場に呼んでいただいたNMAの沼山さんに大感謝です!2日のライブがいまから楽しみです。みなさん、来ないと損ですよ!

2001年 8月2日
今日はヤマハのアベニューでの前座演奏。とは言え、舞台のそでではカールさんが、会場後方では大友さんが演奏を聞いている。こんなプレッシャーは久しぶり。しかも楽屋を出る前にお2人に「頑張ってねー」と言われ、ご本人たちは軽く言ってくれたんでしょうが、その言葉が妙に重くてめまいが。15分という限られた時間ではあったが、本人評価は久しぶりの70点。あとの30点は、チェンジのポイントを少々逃がしてしまった点。しかもソロ演奏は自分にだけ責任を持って演奏すればいいのに、変に自分に遠慮してしまった箇所があったのも事実。まだまだです、本当に。しかしカールさんにも大友さんにもお誉めの言葉をいただいて、(お世辞でも)一安心。今回は15分しか演奏してないのに30分に感じるほど、緊張したソロでした。それにしてもカールさんも大友さんも凄かった。本当に、ただただ凄かった。この音を聞いてない人は人生損してます。今度どこかでお2人のライブ告知を見た人は絶対、行くべきだと思います。聞いたその日から耳が変わります。耳が変われば精神も変わります。精神が変われば世界観も変わります。もっとも、実際に聞くまではこの言葉の本当の意味を理解できないと思いますが。札幌という小さな都市でコソコソ活動している自分にとっては、お2人の演奏がとても励みになりました。本当にすばらしい演奏でした。自分も、もっと頑張らなくては。ということで、ライブ&打ち上げ直後で興奮ぎみですが、今日はこのへんで。

2001年 8月8日
岩見沢イベントのスポットCMの編集を行う。仕上げまでの全ての作業が皆の手作り。音入れも映像編集もすべてMacで行ったため、ほんの数日で出来上がってしまった。味気のないほど、本当に便利な時代。 編集の際に初めて、ハンブルグバレエ団による振り付けのVTRを見た。・・・これはすごすぎる。ほとんど即興的に制作した音のパートですら、全て理解して踊っていた。おそらく今月末のリハーサルの時点で泣いてしまうかもしれない。札幌にいながら、これほどレベルの高い人たちと仕事ができるとは、本当にありがたい話しだ。98年のエルベトンネルでのイベントとは比べ物にならない仕上がりになるだろう。彼らとの再会がとても楽しみだ。

2001年 8月13日
皆さん、御盆休みはいかがお過ごしでしょうか?僕は溜っている音楽制作の仕事を仕上げるため、御盆も朝も夜もなく、仕事をしております。何とか8月15日には、岩見沢の準備に集中しなくてはいけないからです。 しかし気になっているのは、自分の新作の制作がちっとも進まないこと。やはり9月1日が終わるまでは、こんな調子なのでしょう。今月末には授業も始まりますし。こんなことをボンヤリ考えているせいか、仕事は少々煮詰まりぎみ。仕事柄、いろんなジャンルの音楽を作らなければいけないので、頭がパニックです。さぁ、あと残り7曲か・・・。

2001年 8月18日
ここ最近は自作の楽器作りに追われる日々。10日後にはリハーサルも控えているため、頭も興奮ぎみ。良く眠れない。先日BEHRINGERのEURORACKを手に入れる。昔は小型ミキサーと言えば性能がかなり劣っていたものだが、これは非常に良い。このサイズで6チャンネルも使えれば必要にして充分。だが機材が新しくなっても、問題はどんな音を出すか。ここが悩みどころ。

2001年 8月21日
ビョークの新譜を聞く。1曲目から「オー!」、3曲目あたりから涙を流して聞いていた。相変わらずくだらない音楽が巷にあふれる中、生きているうちにこんな良質の音楽を聞けるということは、本当に幸せなことだ。CDを買ってドキドキしながら帰ることも久しぶり。今日は久しぶりに耳が浄化される思いだった。(でもやっぱり「ホモジェニック」派です)。

2001年 8月24日
急遽、正午よりFMアップルの番組に生出演。端さんと共に岩見沢の告知を行う。明日はノースにてグッチーさんの番組に出演。先日はFMカロスに1時間出演と、ラジオ続き。そろそろリハーサルまで秒読みに入った。来週の今頃は総合リハーサルの真っ最中。ここ何週間かは興奮しているせいか、ちっとも眠れやしない。何度経験しても、公演前はこんな状態。本番5分前にならないと、緊張がおさまらない。気が弱いんでしょう、やっぱり。逆に、慣れたらおしまいなのかな?緊張感があるからこそ、いい演奏ができるかもしれない。

2001年 8月30日
昨日と今日は芸森でのリハーサル。あまりの人数に多さにやっている本人も驚いてしまった。昨日は午後から個別のリハーサル。ブルガリアン・コーラス、パーカッション・グループ、ソプラノとの細かいミーティングを行いながら、各パートを確認していった。なにせ多国籍。日本語から英語、ドイツ語、ブルガリア語が入り交じる。夜7時からは総合リハーサル。バレエ団が生演奏を聞きながら動きをチェック、そしてピアノ、ヴァイオリン、チェロの演奏者が合流。出演者、演奏者、そして各スタッフが、模索しながら全員でいいものを作り上げようとしていた。僕も緊張し、恐縮し、困惑しながらも必死で最良の方法を見つけようとしていた。今日もこれからリハに向かう。きっと昨日よりももっと良くなるだろう。

2001年 8月31日
ようやく皆がまとまりはじめた。演奏のクオリティが上がっていく。ダンサーのテンションも上がっていく。 明日はいよいよ、岩見沢でのリハーサルだ。

「ボレロ2」のリハーサルの映像はこちらから↓


(なお、ムービーを御覧いただくにはQuickTime Playerが必要です。)


2001年 9月1日
岩見沢野外音楽堂キタオンでのリハーサル。巨大なステージに圧倒される。雨が降ったり止んだりの中でのリハーサル
でなんとか本番をシュミレーションする。思ったより自分がキュー出し(合図)をしなきゃいけないシーンが増えた。
各ミュージシャンへは当然の事として、映像班、ダンサーなどにも本番中合図を送らなくてはいけない。
明日は晴れるのだろうか。


2001年 9月2日
「 9月2日、雨は降らない」そう誰もが願っていたように、見事に晴れた。前夜は郊外にある静かな環境のホテルで十分な休息をとっていたので、全員のモチベーションも上がっていた。当日リハも順調に終わり、4時半から開場。まずい、腹が痛い。貧乏ゆすりが止まらない。全く本番前はいつもこれだ。まだ自分の出番までは2時間はあるというのに、舞台裏の空気に我慢できない。あとで聞いたら、ハンブルグバレエ団のイリも本番前は腹痛になるらしい。本番直前に舞台裏で2人で抱き合って励まし合っている時には、僕とイリの腹痛はピークに達していた。そして第2部最終幕本番。まずは僕がひとりでサブステージに乗り込む。こんな時のコンピュータ起動ほど、時間が長く感じられるものはない。おせじにも満員とは言えない会場で、世界でも稀な総合パフォーマンスがブルガリアン・コーラスと共にはじまった。バレエ、音楽、映像、照明、音響、舞台、異ジャンルの人たちがひとつの空間を作り上げていく。演奏も少しずつボルテージがあがっていく。僕のノイズにエルブトナールの打楽器が反応していく。そして、「ボレロ」部分では演奏者全員が参加した。だが、正直ステージ終了後の会場の反応が心配だった。だがそんな不安はすぐに吹き飛ぶ。ステージ終了後、拍手が鳴り止まない。客席を見るとほとんど全員が立ち上がっている。終わった直後のことはほとんど記憶にない。気が付いた時には舞台裏でみんなと抱き合っていた。予想をはるかに上回る大成功で、今までの苦労が帳消しとなった。まだまだペーペーで、ノイズミュージックをやっているような僕の指揮で、ヤーノシューさんやアマンさんたちが演奏してくれるわけがない。だってそうだよ、ピアノも弦も本当にすごい人たちばっかりなんだから。正直本番がはじまるまでそう思っていた。だが、少なくともラストの5分は全員がある共通意識の中で演奏していたような気がした。言葉では現せないが、僕の中では確かにそうだった。あっと言う間に本番が終わってしまったが、いま振り返ると事の重大さに気が付く。これは北海道にいながらも、とんでもない経験だ。このプロジェクトに参加するにあたって、絶大なるバックアップをしてくれた端さんとみきさんに、本当に感謝します。そしてCAIをはじめ影で支えていただいたスタッフの皆さん全員に、この場をかりてお礼を申し上げます。そして、制作段階からいっしょにコラボレートしてくれたイリにフィーレンダンケ!そしてハンブルグバレエ団ダンサーの皆さん、クネス、サポートダンサーの皆さん、最高にかっこよかったです。そしてエルベトナールとヘルガ、また来年やろうね!谷本さん、マテーさん、アマンさん、大西さん、竹内さん、御一緒できて本当に光栄でした。能力不足で御迷惑をおかけしました。エバ・ソング・カルテットの皆さん、最初はなかなかうまくコミュニケーションできなかったけど、最後には仲良くなれて本当に良かった。打ち上げで聞かせてくれた綺麗なコーラスとハイテンション・ダンスは一生忘れません!そして家の嫁さん。風邪をおして本当に頑張ってくれました。裏で走り回る決死のサポートは最高でした。本当にありがとう!いきなり会場に現れた父さん母さん、わざわざありがとうね。いつも心配かけてごめんなさい。そして最後に、このショーを見に来ていただいた皆さん、本当にありがとうございました。これからも精進して良いパフォーマンスをお見せできるよう、努力していきます。ありがとうございました!!!

「ボレロ2」本番の映像はこちらから↓ 


そしてイベントの写真やレポートはCAIが制作したこちらのHPから


(なお、ムービーを御覧いただくにはQuickTime Playerが必要です。)


2001年 9月9日
ついにiBook(DVD-CDRW)を購入。といって別に儲かっているわけではないし、経済的余裕があるわけでもない。今年の始めから長きに渡って夫婦で話し合いを重ねた結果、この時期に思いきって投資!という大結論に至ったわけだ。おまけに今までの機材の8割を売りに出すこととした。20Uラックにマウントされていたシンセ、リズム音源などは、まとめて楽器屋へ。中には初めてバイトして買った思い出の品々もあるが、ここはキッパリとお別れすることに。これからはiBookがシンセやサンプラーの役目を果たす。それにしても売り出し希望の品々は、当時合わせて100万近くもしたのに、いまではその価値はガタ落ち。値段がつくかわからないものもある。ローンだってそうとう長かった・・・。しかしまぁ、よくこんな機材がこんな狭い部屋にあったものだ。そうとう部屋が広くなる。それにしても、iBookは大きな買い物には違いないが、当時かけた金の3分の1近くの価格で、同等かそれ以上の性能が得られるとは驚きだ。これでケーブルだら けのむさ苦しい部屋とはお別れ。とにかく今までの機材よ、ありがとう。特にヤマハのV50、よく働いた!偉い!そういえば、インターナルに自作のノイズサウンドが100個は入ってる。まずい、消しておけばよかった・・・。

2001年 9月10日
10日後の今頃にはロンドン行き。イギリスには初めて訪れる。見たい所もたくさんあるし、会いたい人もたくさんいるが、まぁあまり予定を詰め込みすぎないようにしよう。26、7日にはハンブルグへも足をのばすつもり。ハンブルグバレエのイリとオットーの誕生日も近いしなー、何プレゼントしようかなぁ。今月末に帰国するが、着いたとたんに授業開始。後期は授業数も増えるらしい。札幌ではあまり制作の仕事もないし、とっととあっちに移住しようかなー。

2001年 9月11日
NYでのテロのニュースとその映像に空いた口がふさがらない。来週には長いフライトになるというのに・・・。イギリスは大丈夫という保証はどこにもないし。それにしても、狂ってる。何なんだ?


注)その後、ロンドン、ハンブルク行きは中止。同時多発テロ後、創作する気もあまり起きず日記を書く気もあまりなくなります。
( それを象徴するかのように、2001年10月から2002年の2月までの日記のバックアップが見当たりません)

そしてその後、日本を離れドイツへ移住する決断をすることになります。


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